映画「ハゲタカ」感想(再掲)

映画「ハゲタカ」DVD発売記念ということで、mixi日記にしか書いてなかったハゲタカの感想を転載します。ちょっとだけ修正加えてますが。2009年07月18日に書いたものです。なので、書いてる内容が少し古いですがご了承(?)ください。

結局7回くらい観に行ったんだったかな?作品としての仕上がりはやはりドラマに軍配が上がると思うし、所見の印象は「ドラマよりだいぶ甘さを出したなぁ」という感想だったのですが、やはり複数回見ると、色々気付く点もあり、面白い映画でした。

映画版は、どうしても途中で脚本の大幅変更になったのが原因と見られる破綻やこじつけが感じられたので、脚本変更前の話も是非見てみたかったのですが…。でも世に出た完成版はこの作品ということで。やはりNHKの「ハゲタカ」らしい作品だったと思います。

以下、感想です。長文です。


きちんとした感想を書いてなかったので、あらためて。
何回見ても飽きません、どのシーンもどの台詞も。

公開初日に行った1回目は、結構展開がどんどん変わる時間帯があるので、ストーリーを追うのが精一杯。情報量が多すぎるので、必死でした。鷲津の必殺技のリアリティが気になったりもして、消化不良だったり、ついに映画になったんだなぁという興奮やら何やら色々で、ふわふわした1回目。

2回目は、ストーリーがわかっているのでそれの復習な感じ。ああいうとことか、あそこをもっとちゃんと見よう…と結構肩に力が入って見た回かも。しかし展開がわかっていると、劉が切なすぎる……。同じシーンでも、2回目の方が劉の孤独さを感じたりして、悲しいというより、何かぞくっとしたり…

3回目は、2回目に劉が気になったのと同じ感じで、自動的に照準があったのが守山。「誰かになるんだ!」のシーンと、お金を拾ってうずくまるシーンは、初回、2回目より、この日が一番、見て動揺。

4回目は結構前の方で見たので、細かい字だの色々見えました。玉鉄の髭のそり跡や吹き出物まで。あとエキストラでようやく自分らしき人をみつけましたよ!後ろ姿だけど…。自信ないのでDVD出たら確認しよ〜っと。


しかし、当たり前だけど、同じ作品なんで、全部同じ内容で、知ってるシーンばっかなのに、その時によって、前はどうとも思わなかったことが「あ、これってこういうことかも…」と、するっと心に入ってきたり、感情移入する人物が変わったりと、違うもんだなぁと、しみじみ。同じ作品複数回見るのも面白いよね。

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さて、ドラマははっきりと、副題の「ROAD TO REBIRTH」にあった通り、再生がテーマでしたが、映画のテーマってなんだったんだろう。映画には「再生」の副題はありません。その通りに、劉には再生の道がなかったんだよね。コピーとしてついているのは「こんな国に、誰がした。」「何のために戦うのか。何のために働くのか。」だけど、しっくりこないかも。やっぱり劉、守山の言った「誰かになるんだ」かもしれないな〜とぼんやり思ってます。

実は1回目観に行ったとき、守山がレストランで劉に言った、"オレたち部品なんだよ、文字通り"な派遣工である自分たちに企業が求めること→「オレは誰かであっちゃいけないんだよ」のセリフを聞き逃していました…!で、その後のシーン「誰かになるんだよ、守山」→デモにて「みなさん、誰かになるんだ…!」のセリフが、いまいち「?」としっくりこなかったのです。そらこんわ。

その「誰かになるんだよ、守山」を言ったのが劉だというのがね。劉は結局、中国の残留日本人孤児三世でもなく、母が売血して作ったお金で他人の戸籍を買ってなりすまし、祖国を出た素性の知れない中国人でした。そういう意味ではまさに「誰かになった」人。でも劉にとって、子供の頃に見たアカマの車に乗るために、夢を叶えるために、中国の貧しい農村から抜け出すには、そこまでするしか術がなかった。

鷲津が200万で三島の親父さんを救えなかったことで、お金の重みを感じているように、劉にとっては、お金、今の自分があるのは、母親の血のおかげ。ホテルの部屋の窓辺で、タバコを使って、恐らく中国の故郷の方へと、願掛け?祈り?のようなものを捧げていた劉の姿が、現在の劉の原点がどこにあるのかを示していたシーンかと思います。そして、400万の受け取りを拒否して投げ捨てた守山に対する、「金を粗末にするな」「拾え!拾わなきゃいけないんだよ!」と、鬼気迫る劉のセリフ。少し前までは、何故アカマで働いているんだと問われ、「派遣会社に行けって言われたから」と答えていた守山と、そういったバックグラウンドのある劉との、このやりとりは、今回の映画の重要な見せ場の一つでした。

その時の劉は、鷲津ファンドがスタンリーブラザースにTOBを仕掛けた、との一報を受けた直後だったけど、何となくすでに自分の末路を薄々感づいていたのかも、とも思います。劉はそこで守山に、「君子不跟命争……賢い人間は運命に逆らわない」「戻れ、元に居た場所に」と言っています。守山に対してだけでなく、自分にも言い聞かせていたはずの「誰かになるんだ」と言ったセリフとは矛盾して聞こえるけど、他人になりすましたことでアイデンティティを失い、不安定だった自分の中で、どちらもずっと劉の中に真実として共存し続けていた感情だったと思います。劉は、守山の中に自分を見ていただろうけど、劉と守山の違う点は、劉には戻れる場所がなかったこと。

2回目観た時に、このあたりが1回目よりぐっと胸に来て、最期に鷲津の携帯の留守電に残っていた「鷲津か?オレだよ」のセリフで、そうか、劉は最期まで鷲津にも自分の名前で電話をかけることが出来なかったし、逆に、こんな最期の電話を受けた鷲津でさえ、本当の劉の名前を知ることがなかったんだと思った時に、劉の孤独が見えた気がしました。そして、ほんとに劉の戻る場所がどこにも用意されてなかったなぁという脚本に対しても「ひでぇ」と思いました…

最期のシーン、刺された後の行動を見てても、鷲津に電話を掛けた他に、救急車は呼ばなかったんだろうなぁと思ったのですが、それも「運命に逆らわない」だったのかも…?恐らくもう故郷には帰れない劉が、誰か(ファンドマネージャーとしての劉一華)になろうとして、それが無理だったときに、戻る場所がないのなら、あぁなるしかなかったのかなと考えると…。やっぱり辛いなぁ。

劉のキャラ、玉鉄の顔がまたキレイなんだけど、すごく無機質に見える瞬間もあって、「オレは、アンタだ」と言った時の顔は、画面の見せ方もあって、鷲津の前に鏡があるのに正体不明の誰かが映ってるみたいな、不思議な効果になってたなと思います。玉鉄は最初、キャスティング発表されたときに、え〜?ハマるんかな?でも、まぁ、映画化だし、画面に華は必要だよね…くらいにしか思ってなかったんだけど、観た後は、劉という人間に、ピタっとハマっていたなぁ、玉鉄だからこその、劉の魅力が出せたんだろうな〜と思いました。熱演だった!

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で、守山くん。守山の解釈は色々と意見が分かれてて面白いね!主に、400万を拾って劉の部屋を出たあと、道端で株価ボードを見つめるシーン、最後に乗ってたアカマGTをいかにしてゲッツしたかという点。

争点自体は一つかな。「守山は劉から受け取った400万をもとに、株なりFXなりを自分で勉強して成功し、その金でアカマGTを買ったよ(株価ボードを見つめていたのが証拠だよ)」派と、「守山は劉から受け取った400万でアカマGTを買ったよ(株価ボードを見つめていたのは、これが劉のいた世界なんだと改めて認識した or 改めてお金というものを意識したから、etc)」派に分かれるようです。

私はこれについては初回から一貫して後者です。守山が西野のように「悔しさと絶望をバネにビジネス的なことで成功した」ケースというのは、感覚的というか、映画の雰囲気というか、流れ的にというか、決定的な理由を説明するのが難しいのだけど、ない!と思います。服装も若干よくなってるじゃん〜満足げな顔してるじゃん(=人からもらった金をまるっと使ったのではなく、自分の力で成功して生活が豊かになったからだ!誰かになったからだ!)、というのは、言われてみればそうかもしれんけど、そうとも言えん、としかいえないんだけど。あのシーン、何回見ても守山の真意をはかるのは難しい。やっぱり観るに人によって解釈が分かれるかな。

私が思うのは、こういう見方をするのはちょっと反則的かもしれませんが、脚本的にも、派遣工の話は脚本大幅改訂の際に後からねじ込んだエピソードだと思うので、守山はそこまで「のしあがり」を期待されているキャラではなく、どちらかというと一般視聴者に近い場所で、劉や鷲津たちを観ているような立場設定だと思うんだよねぇ。

警戒心が強い割りに出されたコーヒーは遠慮なく飲む、3年も同じところで働いているのに、何故ここで働いているのかと問われれば、「派遣会社に行けって言われたから」という仕事への執着心の薄さ、そのくせ企業からは自分が人として扱われない、自分を認めてもらえないことへの不満は口にする、という、根拠のないプライドを持った今時(?)の一部の若者っぽさを出されてるキャラだと思うんだよね。

企業に不満を抱きつつ、自分の仕事や立場に正面から向き合うことも、お金がないと思いつつ、そのお金にだってちゃんと向き合ったことがなかったであろう守山が、劉の「誰かになれ」という言葉によって、初めてそれらのものと向き合う。入れ知恵され、焚きつけられたものではあったけど、デモをまとめ、自分で原稿を起こし、呼びかける。

ただ、誰かになれそうだった矢先に、デモは失敗し、自分の呼びかけに耳をとめる人もおらず、誰かになろうとしたことで、会社からは自分だけが首を切られる。これまでのモヤモヤとした生ぬるい絶望でなく、恐らく初めてハッキリとした挫折を味わい、劉を訪ね「はじめから裏切るつもりだったんだろう!」と怒りをぶつける。

劉は、本当は守山にこんな形で絶望を味わわせるつもりではなかっただろうけど(社長が守山の首切ったのは劉の想定外だっただろうしね)、先のセリフで、結果的に守山に、自分の頭で考え、自分で行動を起こし、自分の立場、力、金といった現実と向き合わせ、守山のプライドを壊す、という体験をさせる。

私の友達が、彼女の体験から言った言葉で、ひとつずっと忘れられないものがあって、それが「否定からアイデンティティが生まれる」ということ。自分の存在を否定された時に、初めて自分を認識するという内容のことだったんですが、守山は今回それだったんじゃないかなぁと思います。

劉とご飯を一緒に食べてても、誰かになれ、と言われても、守山はまだ劉の立場や世界を掴みきれていなかったはずで、それは自分自身の現実とちゃんと向き合っていなかったから。自分の現実がクリアになったことで、劉やその世界がどういう場所にあるのかという距離感を感じたと思います。その意味で、株価ボードは、守山が今まで自分が見えていなかった世界に目を向け、認識したシーンだと思ったわけです。でも、そこからその金でのし上がることはしなかったんじゃないか説の根拠は、先述のとおり。

400万でアカマGTを買うことで、自分が今まで作ってきたものを確かめたんじゃないかなと思ってます。このシーンは、ドラマでの鷲津の、三島製作所の話を思い出します。これの対になってるのかなぁと思ったり。

あの工場は、自動車メーカーの下請けの下請けの下請け。
部品を固定する特殊なネジを作っていました。
ネジ1個の加工賃は7円50銭。二人で2000個。それを8時間で作っていた。
時給いくらです?
朝から晩まで、油まみれで働いても、
その自動車メーカーの車は買えないんですよ。…

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さて鷲津です。鷲津の見せ所は、スタンリー株大暴落のシーンかな。サントラ買ったら、あのシーンで流れていた曲は「涙の日」ということがわかったのだけど、某掲示板を読んでたら、モーツァルトのレクイエムの内の1曲に似ているという話があって、そのレクイエムの名前がまさに「ラクリモーサ(涙の日)」という曲らしいです。モーツァルトの「Lacrimosa」を聞いてみましたが、ほんとに似てるというか、結構そのまま編曲したぐらいの勢いの曲でした。なるほど。

ラクリモーサ(涙の日)は「罪ある人が裁かれるために灰からよみがえる日」だそう。必要以上に深読みが出来てしまいますね。ちなみに監督の大友さんはラジオでこのシーンをイチオシしていらっしゃいまして、ドラマ版の鷲津があってこその、このシーン、ということを言ってらっしゃいました。

この曲が流れる中、スタンリーの株は大暴落して、まさに鷲津のシナリオ通りの状況になっているのに、鷲津は、劉一華風に言うと「アンタはちっとも嬉しそうじゃなかった」。経済を学ぶためにアメリカに渡り、ある意味そのアメリカに育てられた鷲津がその手で、自分が信じてきたものをブチ壊すきっかけを与えてしまったのを、ずっと静かに見つめているシーン。

しかし鷲津はすごくナイーブなのにようこんな仕事してるよな〜と、ドMぶりにビックリしてしまいますわ。「クソがつくほど真面目だ」と芝野に言った鷲津だけど、鷲津だって基本的にクソ真面目というか、クソ正直で、不器用ですよね。芝野さんの方が体質的には向いているんじゃないかと思うほどw 鷲津は仕事で関わった色んな人の絶望を受け流せない。逆らわずに、まるごと受け入れて背負い込みすぎ。今回の映画では、あんな形で劉の思いを背負う羽目に。劉の故郷まで確かめに行って、自ら劉の思いを受け入れるんだもん…重たい…!!重たすぎる!!

それを考えると、親父さんは死んでしまったけど、結果的に息子が旅館を立て直したことで、治については、身近な存在の中では珍しく、鷲津の中で救いに近い形になった例なのかも。ドラマの時からだけど、治に対する態度は、他の人に対する時とちょっと違う…。なんか南朋さん見ててすごいなーと思うのは、鷲津の纏う雰囲気が、治と会ってる時と、芝野と会ってるときとで絶妙に全然違うことです。役作りはしてるんだろうけど、ほんとに「NHK版鷲津政彦」が憑依してんじゃないか!?と思ってしまう……恐ろしい……!

というわけで(?)やっぱり、資本主義の焼け野原を見に行く、といって「お前らしい」と芝野さんに言われたのは、自分で「腐ったアメリカを買い叩く!×3」とか言ってブチ壊したアメリカに、また戻るってことだろうなと思っています。

でももしも続編があって、冒頭でまた鷲津がアメリカのどっかで浮腫んだ顔で飲んだくれてたら笑う…!!
そして「やっとみつけた」→「うっせー!」ガチャーン!(すいません好きなんです)

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で、話は微妙に戻って「誰かになるんだ」だけど、映画を最後まで観て思ったことは、映画版のもう一人の主人公だった劉は、結局、誰かになることはなかったけど、逆に、劉をとりまく周りの者が皆、ある意味劉であったんじゃないかなということ。誰かになるんだ、は、誰かになりすますわけでなく、曖昧な自我じゃなく、自分の現実としっかり向き合い、自分の存在をきちんと認識しろ、という意味に近いんじゃないかと思いました。

映画のラストで、鷲津が、アカマに夢と希望を与えられ、再建する立場になった芝野に、「あいつは、あなたですよ。芝野さん」と言ったけど、それだけでなく、勿論「オレはアンタだ」と自分で鷲津へ言ったように、鷲津でもあったし、不安定な自分の立場で不満と不安をかかえていた守山でもあったし、「あんただってこっち側の人間だったはずだ。現実を見るんだ」と由香へ語りかけたように、辛い過去を持ち、鷲津と敵対し、現実に向き合わなければいけない立場だった由香でもあったし、「Greed is Good、強欲が善」だった時代の西野の面もあっただろうし。勿論、中国という国を体現している面もあっただろうし。

赤いハゲタカだった劉一華という人物は消えてしまったけど、意志や思いがそれぞれの人物の中に残ることで、劉の思いが昇華されるんだろうな、と、思わないと、最期の電話の「頼むよ、乗せてくれよ、その車に」の台詞や、劉という人物そのものが寂しすぎるねぇ…


こうして振り返ると、映画はやっぱりドラマより、ドラマチックというかナイーブな作りになってるのかなぁと思いますが、やっぱりハゲタカワールドは健在だったし、映画作品としても、ちゃんとハゲタカをやりきってくれたんだなぁと思い、監督を初めとするスタッフさんや役者さんに拍手を贈りたい!

ドラマからのテーマ曲、ROAD TO REBIRTHが流れたあと、エンドロールでかかる曲のタイトルは、映画版のサントラでは「His Wings」となっています。ドラマの予告でもさんざん使われていたハゲタカのもう一つのテーマソング、名曲!タイトルを見ただけで、胸が熱くなります。ほんとにハゲタカを映画館のスクリーンで観られたことが嬉しいし、感謝感謝の気持ちです。あけぼの光学の記者会見時の芝野さんの気持ちだね〜。

「出会えて、良かったと思っています」!